立山カルデラムービー



一番最初にカルデラを訪れたときは折立には立ち番など居なかった。岩を切っただけの荒れた道はパンクや転落に恐れながら走らねばならなかった。有峰林道自体も舗装は一部だけでトンネル内など滝が落ち川が流れているところもあったくらいだから驚くこともない。有峰トンネルを抜け白岩砂防の空き地に車を置きキスリングに詰め込んだ重いゴムボートを「よっこらしょ!」と担ぐと湯谷川沿いの川原や古い街道跡(越信山道或いは立山新道)を上っていく。雨後の川原は土石流で埋まり長靴が取られることもしばしばあった。噴泉を過ぎ急な坂道を上がると立山温泉のある台地上に出る。
洋館風の立山温泉はお洒落な雰囲気だったが扉の壊れた調理場に今の今まで使っていたような陶器や磁器の皿が横倒しになっており、まるで突然人々が消えたかのような、タイムスリップするような感覚を覚えた。
目的の泥鰌池へ行くには立山温泉からもう一度湯谷川を渡らねばならない。ぐずぐずの斜面を川原へ下り、岩を飛びながら少し上流に渡ると細いトラ縄の下がったルンゼ上の道が台地上に続いていた。上がるとそこは一面ミズヤナギが密生する湿原だった。

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早朝トレーニング&ストレッチ、長袖で出たのに恐ろしく寒くて掌の感覚がなくなった。
距離7.5km、MAX135、AVE124、00:59:25、625kcal
今日も記録更新!?寒くなると調子がいい感じはするがこんなに縮んでいいか?って感じ。



「立山・黒部」ゆめクラブ 特別講演会
   H22 年 8 月 28 日(土)14:00 高志会館
「知られざるもう一つの立山」
― 立山温泉をめぐる人々 -
講演要旨
1. はじめに
立山温泉は、胃腸病に効く名湯として江戸時代から親しまれてきた。明治期になり湯
治客だけでなく、立山登山者や砂防基地として賑わい、文人墨客も数多く訪れている。
何が人々をこのように引き付けてきたのかを、立山温泉をめぐる人々を通じて考えてみ
たい。
NHK に対抗して、立山温泉版の「歴史秘話ヒストリー」である。
2. 立山温泉の変遷
 昔は「温泉」あるいは「多枝原温泉」などと呼ばれたが、「立山温泉」と呼ばれるよう
になったのは、明治以降のことである。
・安永年間(1772~1781)に岩峅寺衆徒により開湯
・文化 11 年(1814)に新庄金山裁許の管理、
・文政6年(1823)に深美六郎右衛門が湯元
・明治 30 年に杉田八郎左衛門が湯元
・大正 10 年に加藤金次郎が経営
・昭和 48 年に閉鎖となり名湯の歴史を閉じた
 新庄銀座という地名は、新庄金山裁許の役所跡と考えられる
 亀谷銀山衰退の後、新庄へ移転した寺院がある(銀山寺)
3. ザラ峠越え(伝承)
 この峠は、戦国武将 佐々成政にまつわる歴史とロマンに満ちた場所です。
 天正 12 年(1584)厳冬期、東西を敵に囲まれ進退極まった成政は、活路を求めて
厳しい真冬のザラ峠越えを断行した。信州から一路南下し、浜松の徳川家康に面会し
て、対秀吉戦への再決起を強く促したのである。これが今日までに語り伝えられる「さら
さら越え」の壮挙である。
ザラ峠越え(余話1)
 このルートは、古くより「忍びの道」(スパイの道、間道)として密かに存在し
1ていた。
 このルートには、幾つかの説があるが、厳冬期の急峻な立山越えを可能にし
たのは、立山を知りつくした地元芦峅寺の者だから成し得たと言える。成政と
芦峅衆徒と良好な関係であったのでないか。
御縮山(余話2)
後年、越中を支配した前田の殿様がしきりに気にしたのは、「さらさら越え」
の際に利用された「忍びの道」であったといわれている。
加賀藩三代藩主 利常公は、調査隊を派遣し、この「忍びの道」を調査させ
た。その報告に基づき加賀藩は、この道を含め周囲の山越え区域を国境警備
と藩林保護のため「御縮山」と定め、「奥山廻り役」を設けて一般人の立ち入
りを禁じた。・・・(浮田家)
その反面、加賀藩は、この「忍びの道」の逆利用を考えた。
万一、幕府との間に非常事態が発生した場合、藩主が江戸から金沢へ逃げ
帰る最短のルートとして利用することを考えていたとも云われている。いわゆ
る「加賀様の隠し道」と云われるものだが、そのような切迫した事態は、徳川
時代 260 年間の間、ついに起きなかったのであります。
4. 立山温泉への道
江戸時代には、弥陀ヶ原を経て松尾峠までを立山禅定道を利用し、厳しい松尾坂を
700 mも下るコースをとっていた。女人禁制であった。(温泉古道)
 江戸時代後期になると、松尾坂が大変に厳しいので、別ルート開拓の要望が高まり、
常願寺川左岸沿いに道が作られた。女人禁制なし。(温泉新道)
(1) 温泉新道
文化 11 年(1814)に加賀藩は、利田村の肝煎・深美六郎右衛門に常願寺
川左岸の原から立山温泉までの道路開削を命じた。深美は再三固辞したが、
救済事業になるとの説得に理解を示し、莫大な私費を投じて2ヵ月半の短期
間で完成した。
(2) 温泉新道の影響
温泉新道は、立山参拝の近道となったが、対岸の芦峅寺から猛烈な反
  対運動がおこり、嘆願書が出される等で紛糾する事態となった。
   理由としては、芦峅寺宿坊の宿泊者が減少し経営危機に陥ったことや、
宿泊者4千人分の糞尿肥料が不足するというものであった。
 しかし、新道開発許可がだされており、次々と工事は進められた。奉行
   所は、やむを得ず、立山温泉から登拝は認めない処置をしたが、立山への
2近道であることから、「こっそり登拝」する者が後を絶たなかった。
(3) 立山温泉開祖 第 10 代目 深美六郎右衛門
文政 6 年(1823)には、諸般の事情から「温泉新道」を開削した深美六
郎右衛門が湯元になる。これ以降の立山温泉は、明治 30 年までの75年間
深美家によって経営されていくこととなる。
深美の苗字(余話)
 深美という苗字は、寿永 2 年(1183)に上洛した木曽義仲より深美兵庫の
苗字を賜る。
義仲が戦死後、深美家は能登門前町へ移住し、深美家の二男が天文 15
年(1546)利田村に住み、深美家の初代を名乗る。深美家は歴代、村の中心
的役割を担い、財政的に裕福であった。
(天保 12 年 525 石、安政 4 年 850 石、明治元年 548 石)
現在は第 20 代目当主,深見
ひ で じ
栄司 東京都在住
       
5. 飛越地震以降
飛越地震(1858)の際には、温泉背後の鳶山がひと山丸ごと谷に落ち込
み、大量の土砂がカルデラ内を埋め尽くし、立山温泉も厚い土砂の下にな
った。この時に天然ダム発生し、これが決壊して富山平野に大規模な災害
をもたらした。
立山温泉一帯は、数十丈の土砂に埋まり、働いていた杣人(樵)30 数名
が生き埋めとなった。
この時から、常願寺川は大雨の降るたびにカルデラ内に残る大量の土砂
が押し出して、天井川となり平野部に被害を及ぼす「暴れ川」に変わった。
(1) 立山下温泉復活
明治元年(1868)に新たな泉源の発見によって立山下温泉再興が許さ
   れた。第 13 代目当主・深美六郎右衛門は深見六郎と改名した。
明治 2 年に深見家は温泉復興に数千円投入した。
明治 3 年には湯治客として延べ千人を超えた。
明治 5 年に立山登山が女人禁制を解かれた
女性初登頂(余話)
第 12 代目深美六郎右衛門の妻・、立山温泉の女将さん・深見チエは明治
6 年に女性初の立山登山(参詣)を行った。
 しかし、突然に天候が悪化して雷雨に見舞われた。立山権現のたたり
ではないかと、男性の参詣者から罵られ、石を投げられて、
ほ う
這う
ほ う
這う
3の
てい
体で温泉へ逃げ帰ったと伝えられている。
この頃から、廃仏毀釈とともに信仰登山が衰退し、近代的登山が盛んにな
った。
 後年、明治 24 年から5年間、第 16 代目の当主を務めている。
(2) 山の夢・立山新道
 明治 8 年になると、元加賀藩士と信州の大庄屋が「開通社」を結成して、富
山県と長野県を結ぶ道路が計画された。
区間は、原からザラ峠、針の木峠を越え、長野県の野口までの約 57 kmの
道路で「立山新道」と呼ばれた。(成政が通ったとされるルート)
 この新道は、明治 9 年に着工し、明治 13 年に取りあえず全線開通させた
我が国最初の山岳有料道路であった。
立山温泉は、料金徴収、物資の補給の中継基地として重要な役目を果たし
た。
 このような壮大な開発のキッカケには、何があったのかを探ってみた。
そこには、信州における深刻な「塩」の問題があった。当時の信州松本には、
糸魚川から塩が運ばれていたが、品質が粗悪で値段も高かったので不満が
渦巻いていた。そこで良質の「加賀塩」を大町まで運搬する計画が実施された
のである。
「開通社」の設定した料金は、通行人5銭、荷負人7銭等でスタートした。し
かし、過大な収入見込みや、山岳道路の維持管理を甘く見たこと、さらに旧士
族の授産事業の認識の運営で財政が破綻したのである。 
収入は年間 3,300 円の計画に対して、4 年間で 75 円余りであった。
ここに、「山の夢」は、僅か数年で朝露の如く消えたのである。
廃道になった立山新道は、その後、外国人の登山家に利用された。
それが「立山黒部アルペンルート」の先駆けとなったといえる。
(3) デ・レイケ
      オランダ人技師で明治6年に来日し、約 30 年間も日本に滞在し日本各
地の治水事業を指導した。
      明治 24 年 8 月に富山県を訪れ、常願寺川の下流部とカルデラ内の水
源地を視察し、下流部の河川改修を指導した。
      デ・レイケが水源地を視察した時に、カルデラ崩壊地の物凄さに「全山銅
板で覆うしかない」と思ったとのこと。常願寺川を治めるには、河川改修とと
もに上流の土砂対策が欠かせないことは誰の目にも明らかだったが、彼は
富山県の財政事情を勘案して、下流の河川改修計画を立案した。
      水源地調査にデ・レイケの娘ヤコバが通訳として活躍した。
      立山登山では、外国人女性で第1号でした。(当時 13 歳)
4デ・レイケ(余話)
 明治 23 年 7 月の常願寺川が氾濫(馬瀬口 1,300 間決壊、島村 150
戸)
当時の第三代知事の森山 茂は、国の補助と専門技術者の派遣を政府に
陳情するために、70 日余りも東京に滞在した。
その結果、デ・レイケの派遣となったのである。
(4) 立山温泉売却
      明治 28 年に深見栄三郎氏が、五百石の郵便局長に就任したことから、
明治 30 年に舟橋村の杉田八郎左衛門へ 5,600 円で売却した。
      ここに、深見家は文政 6 年以来、75 年間も立山温泉を経営してきた歴史
が幕を閉じたのであるが、売却まえの経営実態を調査した資料があるので
報告したい。
      「とやま歴史的環境づくり研究会」の資料では、明治 20 年には、774 円
の赤字。明治 28 年には、1,453 円の赤字となっていた。
             このことについて研究会では、これだけの赤字を出してまで続けて
いたのは、利益を意図した経営でなく、「信仰に裏打ちされた地域振
興策」であったことが窺えると、結論づけている。
破綻の研究(余談)
2 立山温泉は、明治2年に温泉を再開したとはいえ、鳶崩れ後のために
土石流が多発し温泉施設や道路が被害を受け、その維持費用が深見家の
財政を圧迫したものと考えられる。
高崎経済大学論集 2005 の「明治中後期立山温泉の社会経済史的研究」
      明治 30 年に杉田家が湯元になると、早速と湯治客の便を図るために浴
場・浴室の増築や、立山温泉路の改修に私費5千円を投入したことから、湯
治客が次第に増えて1日に 500 人を超えたと言われている。
(5) 立山砂防工事はじまる
         明治 24 年のデ・レイケによる工事にも関わらず、立山カルデラ内に多量の
崩壊土砂が残っているため、大雨のたびに流れ出して常願寺川が天井川とな
って氾濫を繰り返していたために、富山県は明治 39 年から 20 ヶ年計画で立
山砂防工事に着手した。
着工(余話)
 この明治 39 年は、日露戦争(M37~38)の直後で大変な財政難の時代
であったが、当時の政府としては苦渋の結論であったと思われる。
5         立山砂防工事が始まると県は、立山温泉路をボッカや荷馬車道の整備に 2
万6千円もの巨費を投じて道路を改修した。
         湯川1号砂防堰堤の破壊状況です。
カルデラの中心となる堰堤として着工したが、石を積み上げセメントで
固める工法でしか取り組めなかったため、土石流で何度も破壊された。
 大正11年には、完成を目前にして高さ 10 mを超える土石流に見舞わ
れ、壊滅的な被害を被った。
これまでに費やした 17 年の歳月、工事費 103 万円、犠牲者 16 名の
    尊い命は水泡に帰したので、富山県は万策つきて国営化を求めた。
     大正 11 年 11 月に期成同盟会を作り、常願寺川治水期成同盟会が結
    成され強力に陳情を繰り返した。
     しかし、住民の熱意は政府を動かした。
     大正13年に砂防法が改正された。「その工事が至難な時、工事費が  
     至大な時」は、国が施工できることとなった。
砂防法改正(余話)
 この時に国営化を阻んでいたのは、砂防法であった。
 国の直轄事業は、2つ以上の府県に関係する時にのみ可能とされた。
  うら話として、大正 13 年の砂防法改正は、前年に起きた関東大震災を
キッカケによるところが大きかった。
         大正15年から直轄工事が始まった。初代所長に赤木正雄が着任し、カルデ
ラの出口にある白岩砂防堰堤を計画した。当時の工事事務所としては、大変
贅沢で個室付の2階建て。良い仕事をするには、良い環境をとの信念で仕事
が進められた。
         当時の最優先課題は、山奥へ大量のセメントを運搬するトロッコの整備であ
つた。白岩堰堤は昭和 4 年に工事を始め、昭和 14 年に完成した。 
完成してから 70 年以上も富山平野を土砂災害から護っていることか
ら、平成 21 年 6 月に国の重要文化財に指定された。
白岩の由来(余話)
白岩砂防堰堤の「白岩」という名前の由来は、右岸側が花崗岩で色が白い
ため、白岩と名付けられた。
(6) 写真でみる立山温泉
① 昭和初期の立山温泉、泥鰌池で舟遊びをする人々
・養殖したニジマスの料理は、上等のお客用です
6② 昭和15年頃の立山登山をする女中たち
 ・男装の麗人
③ 浴室別館、男風呂の浴槽
 ・大正時代のタイル
④ 焼却前の立山温泉
 ・熊や狐の巣となったために昭和 54 年に焼却処分
⑤ 元従業員からの聞き取り調査表( 昭和 10 年頃の立山温泉の様子)
  ・年間1万人も宿泊し、売上高は、毎日数千円(現在の百万円)
  ・金庫にお金が入りきらないので一斗缶に入れた
  
    
6. 温泉へ立ち寄った外国人たち
(1) アーネスト・サトウ
イギリス人の外交官で日本に通算 25 年間滞在し、最後は駐日公使を務め
日英関係の進展に大変尽力した。
サトウという姓は、ドイツ系の父の姓で日本の姓とは関係がなかったが、日
本人には親しみ易い名前であると本人も言っていた。
外務省へ通訳生として採用され、「日本語をやりたい」と言ったら、教える学
校がないから「日本へ直接行け」という事になって、文久 2 年(1862)に日本
へ向かった。大変に天才的な語学者で、日本語をたちまちマスターした。
日本名佐藤愛之助とした。明治2年に立山温泉に入っている。明治11年に
は針ノ木峠を越えた。
幕末の重要人物とされる。
サトウは、赴任以来日本を見て、徳川家が、日本を代表する絶対的な主権
の担い手でないことを、いち早く見抜いていた。
将軍を皇帝だとしている外交文書は違うと言っていた。
横浜で「ジャパンタイムス」に日本の将来について随想を書いた。
「幕藩体制を清算し中央集権制度を採用しないと日本はダメになる」
将軍は皇帝でなく、大名の大いなる者ということをサトウは見抜いていたの
だ。
この週刊誌を日本語に翻訳されたものを西郷隆盛が、一生縣命に読んで
自分のビジョンにしたのだと、作家・司馬遼太郎はドナルド・キーンの対談「日
7本人と日本文化」の中で述べている。
当時の背景(余話)
当時の幕府は、オランダからフランスへ乗り換えていた。
 理由は、フランスにはナポレオンがいて世界一強い国と思っていた。
フランスは、幕府を中心に将来の日本の国づくりを指導していた
日英同盟(余話)
 親日家のサトウは、イギリスとの友好関係の基礎を築いた。
 後年になり、日英同盟締結(明治 35 年)の表舞台に名前こそ登場しない
が、その環境づくりをしてくれた。
 日英同盟は日露戦争(明治 37 年)の資金調達に良い影響を与えた。
 間接的には、ロシアのバルチック艦隊が極東への回航の際に石炭の積み
荷を延期させ、日本海戦の時間的余裕を与えてくれた。
(坂の上の雲)
サトウは、清国の公使として日露戦争の結果を見届けている。
 (2) パージバル・ローエル
     アメリカの著名な天文学者である。
火星に興味を持ち私財を投じてローエル天文台を建設して、火星人や
運河の存在などユニークな学説を発表し、世間の注目を集めた。これ らは、
火星探査機からの観測により生物の存在は確認されなかった。
しかし、晩年には冥王星を発見し、天文学の発展に貢献している。
    明治22年、日本地図を見ていた時、「ふと思いついて」日本の辺境・
能登旅行を計画した。その帰り途、七尾から石動、富山へ向かう途中に
「針ノ木峠」越えを思い立つ。
能登へ行く決心(余談)
 なぜ、「日本の辺境の地・能登」へ行く決心をしたのか。
 日本の古都の京都や奈良等へ行かなかったのか疑問が残る。
明快な論評があったので紹介したい(筆者不肖)
 ローエルは、西欧文明の模倣に明け暮れる東京の風潮に愛想をつかし、純粋
な日本の姿を能登のような「辺境の地」に期待したのでなかろうか。
針ノ木峠を目指し、粟巣野から常願寺川に沿う旧道を歩き、荒涼としたカル
デラに入り、夕方に立山温泉にたどり着く。この時の雪に埋まっている写真は、立
山温泉の最も古い写真である。
8・・・ローエルが泊まった立山下温泉
    翌朝、渋る案内人を説得し、雪を踏みながら針ノ木峠越えを試みる
も、積雪に前途を遮られ、ついに道に迷って進行を断念する。一行は芦峅   
寺を目指して下山する。
・・・針ノ木峠をめざすローエル
1883 年から 1893 年の間、数度にわたって日本を訪れている。その著書「能
登」は、当時の西欧社会に大きな影響を与え、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
が来日するきっかけの一つともなった。
   ラフカディオ・ハーンは、日本に帰化して小泉八雲と称した。
   怪談などの著書を通じて、明治の日本を情緒豊かに欧米社会に紹介した。
  ハーンの著書や蔵書を集めた「ヘルン文庫」が富山大学中央図書館にある。
      ヘルン文庫という名前は、ハーン自身が「ヘルン」という呼び方を好ん
だとされ、文庫の名前もそれに由来する。
 しかし、ハーンは富山へ来ていない
なぜ「ヘルン文庫」が富山にあるのか(余談)
小泉ヒツ夫人は、大正 12 年の関東大震災の時、ハーンの蔵書 2,500 冊は、
辛うじて火災を免れたが、今後の管理に不安を感じて蔵書一切を安全な所へ譲
りたい意向であった。
当時、法政大学へ譲るとの話もあった。
このことを聞いた旧制富山高等学校の初代校長になる南日恒太郎は、開校を
前にしてハーンの蔵書が全国から人材を呼ぶきっかけになると考えた。
そこで、南日は、資産家・馬場ハルに購入資金の援助を依頼した。
馬場ハルは、当時の 1 万5千円で小泉家から買い取って、開校記念式に当た
りヘルン文庫を寄贈した。
蔵書・神国日本(余談)
ヘルン文庫には、ハーンの晩年の作「神国日本」という手書きの原稿も保存
されている。この本は、当時の日本人の考え方を知る上で貴重な資料である。
太平洋戦争末期に米軍上層部は、戦争終結の仕方に大変苦慮したと言わ
れている。このことから、戦争終結は、天皇の命による「武装解除」を選んだこと
にも影響したとも言われている。
(3) ウォルター・ウェストン
   イギリスのキリスト教宣教師である。
明治 21 年に初来し、日本各地で布教活動を行う傍ら、日本に深い関心を
抱き、日本研究に力を注いだ。
3回の日本赴任中に富士山・立山・槍ケ岳・白馬岳等の山々に登り、美しい
文章で日本の山々を紹介した。
9「日本のアルプスの登山と探検」をイギリスで出版した。
近代登山を実践に導き、明治 38 年の日本山岳会設立に寄与し、「日本近
代登山の父」と称される。
ウェストン祭(余談)
上高地では、例年ウェストン祭が行われているが、近くにもある。
 親不知コミュニティーロード(市道天険親不知線)にウェストンの全身像が設
置され、例年地元有志による「海のウェストン祭」が催されている。
ウェストンは、「親不知が日本アルプスの起点である」として当地を
訪れている
明治 26 年には、ローエルの著書「能登」を読み、刺激されて信州大町から
針ノ木峠を越えて立山温泉に宿泊している。その後に松尾坂から立山に登頂
して富山へ下山している。
立山登山した時の宿帳が芦峅寺の宿坊に残されている。宿帳にはカタカナ
で「ウェストン」と記されているが、本人が書いたものか、代筆なのかは、大変
に気になるところである。
また、立山温泉で入浴した時の紀行文が残っている。
紀行文
入浴者は主に、常願寺川の上流近くの村からの百姓だった。
男女混浴であったけれども、皆の態度は非常に行儀が良かった。
 ・・・・当時の日本人の入浴マナーの良さを褒めている。
さらに、大正 3 年、前回とは逆のコースで立山に登り、信州へ抜けている。
   
余 談
 日本山岳会のことについては、映画・剣岳<点の記>で日本山岳会初代会
長・小島烏水役を仲村トオルが、ヨーロッパ製の登山装備と合理的な姿勢で好
演していた。
 「日本アルプス」の命名者は、英人技師・ウィリアム・ガウランドで、初めは飛騨
山脈だけであった。
 後に小島烏水は、飛騨山脈を「北アルプス」、木曽山脈を「中央アルプス」、赤
石山脈を「南アルプス」とした。
7.  温泉を紹介した人たち
(1) 浅地 倫(立山権現 M36)
著書の「立山権現」で紹介している。
浴客多きは、4~500 人、人溢れる時は、薬師堂を宿とする。
10薄暗き行燈と煎餅の如き布団、
室貸料は、上等が11銭、下等が8銭5厘、入浴料3銭
(2) 白門生(北日社長 横山四郎右衛門)(立山温泉漫遊記 T 6)
著書の「立山温泉漫遊記」で当時の温泉の様子を紹介している。
 温泉を樋で左岸に導き、水車仕掛けのポンプで高い所にある浴槽に送る設
備になっている。
 大鳶山崩壊で湯川の流身が300m右岸側に変更となった
      (天然ダムが決壊した時に、河身が北側へ約3町寄った)
(3) 吉澤 庄作(立山 T8)
   著書の「立山」で当時の立山温泉の様子を記している。
収容人員は、7~800 人、延べ浴客は 28,000 人、
宿泊料は三食付で特4円、上2円50銭、中2円、下1円50銭、
賄いなしは30銭(ちなみに室堂では 80 銭)
(4) 新田 次郎(劔岳<点の記>)
     著書の「剣岳 点の記」で立山温泉を紹介している。
     昭和 51 年 9 月に立山温泉を訪れて紀行文を残している。
     
紀行文の一節
 山ぶどうの藪に覆われた石畳の道を行くと、そこに立山温泉の廃墟があっ
た。本館と別館は残り、湯治客を泊めていた2棟と大風呂は潰れていた。
柴崎測量官の泊まった行燈部屋は見ることができなかった。県の役
人が泊まっていた別館も別館付の湯殿もそのままの形を残していた。
 やはり、最後まで県の役人と柴崎測量官との事が頭をよぎったのでしょうか。
8.  おわりに
 「立山温泉をめぐる人々」と題して、これまでに立山温泉と深いかかわりを持ってこら
れた人々を通じて、その背景にある世相を織り交ぜてお話をしてきました。
昨年の6月には、白岩砂防堰堤が砂防施設として初めて国の重要文化財に指定さ
れました。
 しかし、砂防基地として重要な役割を果たしてきた「立山温泉」については、まだ解明
されない事柄が多くあるので、これからも調査・研究を重ねて文化資産として、さらに磨
きをかけてまいりたい。
 立山カルデラ一帯は、砂防フィールドミュージアムとしての構想もあるが、私の願い
11は、秘境としての立山温泉が、もう一度復活して欲しいことである。
12

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